土方歳三善豊(ひじかたとしぞうよしとよ)の略歴
法号、歳進院殿誠山義豊大居士 (さいしんいんでんせいざんよしとよだいこじ)
天保6年5月5日(1835年5月31日) – 明治2年5月11日(1869年6月20日)
天保6年武州石田村(現在の東京都日野市石田)に生まれる。出生前に父を亡くし、6歳のとき母も亡くし、その後、実兄の妻に養育される。幼少の頃より武道を好み、庭園に矢竹を植えてこう言っている「―われ壮年武人となって名を天下に上げん」。この矢竹は現在も繁殖している。
11歳にして江戸伊藤松坂屋に丁稚奉公に出されるが、その場と折が合わず、夜を徹して甲州街道を逃げ帰った。得意だった剣術を好み、天然理心流三代の主近藤周助邦武の入門。その頃、初めて近藤勇と知り合い、以後、兄弟のように信義をもって知己を深め合う。
文久3年2月4日、徳川幕府は天皇の御在所京都警備の浪士を募集。近藤・土方はこれに参加し、小石川伝通院に会合した。清川八郎隊長のもと、同月8日京都に上る。
その後、近藤・土方等は隊長清川と意見が合わず、清川等が江戸に引上げた後も、京都に止まり新選組を結成し、会津公松平守護職の下に京阪の治安維持にあたる。動乱の裡に起居すること約5年、形勢も不利なまま江戸に戻ることになる。
甲州勝沼の戦争に破れ下総流山に陣取るが、ここで近藤が捕れの身となり板橋庚申塚において斬首さ れてしまう。一方、土方は宇都宮・会津・仙台に転戦、戦利をあげられぬまま、遂に榎本和泉守武陽と謀り函館五陵郭に入城。
エゾ地(北海道)の開拓を断行し、併せて北辺の守りを固めようと幾度となく屯田兵制度をその筋に歎願するが、取り入れられず却って薩長軍の反抗をあおってしまう。そして遂に明治2年5月11日松前表街道一本木関門にて、馬上諸兵隊を指揮中に戦死、享年35才、近藤の死後一年のことであった。
真言宗智山派別格本山 高幡山明王院全剛寺
高幡不動尊金剛寺の沿革
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院全剛寺は古来関東三不動の1つに挙げられ高幡不動尊と して親しまれている。
その草創は古文書によれば、大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基も伝えられろが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関(とうかん)鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。
のち建武2年(1335)8月4日、夜の大風によっ山中の堂宇(どうう)が倒壊したので、時の住僧儀上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀にみる古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊崇をあつめ「汗かき不動」と呼ばれ数々の霊験を伝えている。又、江戸時代は関東11檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末36ヶ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に消失した。
その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向かったが殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊等の工事が相次ぎ往時を凌ぐほどの寺観を呈するようになった。
重要文化財の丈六不動三尊像は平成9年から4年をかけて大修理が行われているが、 身代わりの新不動三尊像が平成9年4月に入仏開眼し、更に奥殿の建設も進められている。